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[ひらひらと舞う蝶が己の肩に乗った。
此処は危険だぞ、と目元だけで笑い、一寸の虫に暇を出す。
彼女と良く似た黒き蝶が、
血に濡れるのは、あまり見たいものではない。]
[そうして、息を浅く吸い込むと、片手剣を構え、
月明かりの中で振り返る。
その瞬間、耳に届く細い声―――、
灰蒼の双眸が、ゆっくりと、だが、確かに大きく見開かれた。]
[いつか、同じ月下で告げた言葉が頭の中に反響を齎し。
驚きは胸を大きく打つ。
足りない血を巡らせる身体が、微かに痙攣を帯び、
動揺が指先にまで流れ込んだ。]
――――、
[喘ぐように、噛む呼気。音にならずに夜に熔け。
名も知らぬ、顔も知らぬ――だが、決して忘れえぬ彼女の声。]
……何故、……君が、此処に……。
[呑んだ細い息は、ひり付くほどの苦味を伴った。]
[何故、と問うた癖、唯人がこの場に居るはずも無いと、
頭のどこかで事実の箱が開く。
宝箱だと思っていた小箱の中身。
軋んだ蝶番が悲鳴上げて、あの夜、あの月の下で見た、
真っ赤な瞳が記憶の歯車を回しだす。
驚愕から抜け出せぬまま、彼女と対峙する男は、
魔を屠る聖将であり、また―――、
再会に動揺する、ただの男であった。]
[見間違いなら良かった。
聞き間違いなら良かった。
自身が見せた怯懦からの幻覚であれば、どれ程良かったか。
夜の香りの濃い、月如く煌く女性。
心音が喉下まで迫り、心臓が鷲掴まれるように絞られた。
見間違えようも無い、聞き間違えようも無い。
眼前に居る彼女は、己が唯一人約束を交わしたひと。
月夜の記憶が蘇り、真実が己の神経を舐め上げる。]
―――何故、
[答えを知る筈なのに。
いや、いつだって、傍に答えはあった筈なのに。
茨のざわめくこの城で、悠々と舞う黒い蝶。
この城で強く感じた彼女への哀愁。
果たせなかった約束ばかりを思い出して。
己を盲目にさせていたのは、きっと自身の心の底に眠る感情の所為。
それを戯れに玩んだ事はあっても、真摯に向き合ったことなど一度も無かった。
冷徹にして計算高い聖将すらも盲目に変える、
―――恋情という、痛々しい程に切ない魔法。]
―――生憎、君をエスコートする事は叶わないようだ。
[なけなしのユーモアを掻き集めて吐き出すが、
それが右腕の無い己の体を評しているのか、
理解してしまった互いの立場を物語るのかは知れない。
奥歯を噛み締め、双眸に力を込めて彼女に向かい、姿勢を正した。
弱くあらぬように、脆くあらぬように。
剣の切っ先を緩慢ながら持ち上げ。]
[朱の引かれた唇が撓むのに、左胸が焦げる音を聞いた。
彼女の言葉は正しく月下に降り注ぎ、刃の揺れる鍔鳴りに重なる。]
美しい人を誘わずには居られない性分なのさ。
男なんて、莫迦なものだろう?
[軽口を喉から押し出し、あの輝かしい月夜が脳裏に蘇る。
己の中に眠る、確かな想い出。
彼女の評に、同意は出来なかったが、つい口角を引き上げた。]
言っただろう。
“薔薇の棘を恐れて、手を引く男しか知らないか?”と。
[大見得切った唇が、浅く揺れ。
瞳が彼女を映し、さかしまに読む込む。]
―――…後悔すら、君はさせてくれない。
[輝かしい月夜と反し、血臭が騒ぎ、茨が這い、
満身創痍で彼女と相対しても、あの、半年前の月より、
彼女の背負う白い月が、ずっと眩しい。
仮令、どれだけ、罰と罪に絡め取られても、
一目と願った彼女との再会を、悔いることが出来なかった。]
―――…支払いは、君の命で結構。
[彼女に吸血鬼らしい力が眠るかは知れない。
だが、相手は何分、深窓の令嬢。
刃と焔に慣れてなどいまい。
彼女に剣の切っ先を突きつけたまま、一歩、脚を踏み出した。
一歩、更に一歩、逃げ出せば、幾ら女の足といえ、
消耗の激しい己に追跡は難しい。
ただ、彼女の瞳を見据えながら。]
[命なんて、無粋な文句だ。
彼女に、下の下だと評されたって仕方ない。
本当に欲しい心には、手が届かない。
己を家の名で呼ぶ彼女に、一際鋭い棘が胸に刺さった。
彼女の元へ進ませる気力は、家督が鼓舞する所為ではない。
ほんの少し、唯一歩でも、彼女に近づきたかった。
遠い遠い、彼女の傍へ。
這う思いで、我が身の一心で。]
おや、探しても、やはり見つからなかったか。
……口先ばかりで、鼻もちならない自信過剰な男は。
[唇を歪め、喘息と共に笑気が細く零れた。
彼女の瞳から、透明な液体が零れ、月の雫めく。
淡い光を放つようにすら見えて、ああ、と知らずに声が漏れる。]
世間知らずのお嬢さんを誑かすには丁度いい、と、
評価して欲しいな。
[乾いた笑いは、お互いに終末を知っている。
胸を幾ら掻き毟っても、その魂は遠すぎる。
彼女をバルコニーの縁に追い詰め、三歩前で足を止めた。]
[彼女を慰め、涙を拭うには手が足りない。
失われた使徒の力、彼女を抱きたがる左手は刃を持つ。
己の欠けた右腕、彼女の傷付いた左手。
傍らに寄り添い、手を結ぶことすら既に夢物語。]
それは魅力的なお誘いだな。
俺の心を射抜いただけじゃ、飽き足らないかい?
[音も無く呵呵と笑えば、すぅ、と息を引いた。]
詐欺師、と言われないだけ嬉しいな。
―――君はやはり、賢いね。
[彼女が己の家を詰っても、自らの家が何をしているか。
己の家が何をしてきたか、そんな事は嫌と言うほど理解していた。
月明かりに伸びる彼女の影を踏み、剣を構えた。
―――こうして、魔に対して威を示すのは何度目か知れなかったが、
女性に剣を向けたのは、初めてのことだった。]
―――…そうか。
では、君を殺しにくるのも、俺一人かもしれないな。
[世の中の男には見る目がないとばかりに首を振る。
己の目に狂いが在るなんて、欠片も疑わない傲慢な男。
自信家で、頑固で、他にも自も科せ、女性を泣かせる手酷い男。
煌く落涙に、構える剣と低く落とす腰。
己に繰り出せるは最早一刀。
それ以上の力は無い。
似合いだと告げられた彼女の言葉に細く笑み。]
そう、俺の名は、ソマリ・サイキカル。
その名を一度も恥じたことは無いッ!
[義務を背負う聖将が夜に吼えて、闇を駆けた。
苛烈で、不器用で、罪に背を押される加速。]
[彼女を泣かせる男は自身だけで良い。
これが道ならぬ恋だとして、
これが叶わぬ想いだとして、
一体、どうして悔いることが出来ようか。]
[駆け迫る男は金の尾めいて後ろ髪を靡かせ、
鋭い風が髪を纏める結布を攫う。
月夜に高く舞う結布。
拡がる金の髪は照らす陽光に似て、月に迫る。
彼女の心臓目掛けて突き出された刃が、
月の光を弾いて煌き―――。
そのまま、バルコニーの欄干越えて二つの影が闇に舞う。
天上高く造られた城は、階数以上に空が近い。]
[―――――ひらひらと風に踊る結布は純白の色合い。
まるで寄り添う黒き蝶を探すように揺れる。
いつまでも、いつまでも、空を泳いで、探し求めるように。*]
[己の名を、唯の一度も恥じたことが無かった。
我が家の名は、心を意味し、魔を屠らんと打ち立てた始まり。
家に伝わる古い古い昔話。
天使と恋に落ちた御伽噺を祖とする。
末裔たる己は、彼女の心臓目掛けて剣を突き出した癖、
器用にその脇を通し、決して、彼女を傷つけなかった。
嘘じゃない、と笑う男が落下しながら剣を離す。
どうせ、この高さから落ちて、無事では居られない。
――――彼女も、己も。
それなら、もう剣を手にする必要が無い。
この腕で、―――ずっと、求めてきたように、
彼女の身体を壊れるほど強く抱きしめた。]
―――君、
[そっと囁く声が、彼女の耳元に絡まる。
ぶつかった衝撃はあろうが、
無慈悲と謳われる聖将は彼女ばかりに剣を立てなかった。
地面までが随分と遠い。
いいや、きっと彼女と居れば、一瞬は永遠となるのだろう。]
ずっと、聞きそびれていた。
ずっと、聞きたかった。
なぁ、君。
[強請るように、恋うように。
胡散臭いと言われがちの甘い声が零れる。]
[彼女の声が近い。
足りない右腕の分だけ、聡明な彼女を強く抱いた。
彼女の呆れた声も、拗ねる仕草も、己の心を少年のそれに変えゆく。]
[耳に届いた声に、目の奥が痛むほど痺れた。
風の加護も無く、使徒の力も無く、
ただ溢れる感情に突き動かされるまま、口を開いた。]
―――…良い名前だ、アプサラス。
[闇に真っ逆さまに落ちながら。
それでも何一つ恐ろしいと思わなかった。
得た名ごと彼女を抱いて、彼女に対し二度目、人生二度目。
光り輝くように、心より笑って見せた。*]
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