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― トレーニングルーム ―
[ 実戦準拠だ、と不意打ちを仕掛けたが、当たりは軽い。
シグルドは無様な倒れ方はしなかった。
というより、これは間合いを詰める動きだろう。
衣服を巻き込む動きは流れるようだ。 ]
お…っ
[ やるな、という歓心が漏れる。]
[ シグルドにとって惜しむらくは、二人が着ているのが伸縮性にすぐれた素材であったこと。
引っ張られても少しばかりの余裕がある。
シグルドの背に乗せられる形を取りながら、腕を彼の首に絡め、後ろへ引いた。
倒せたならば、喉を踏み抜く寸止めで終わりにしようという目論見だ。
堪えるならば引き手を切って離れたいところ。
さもないと、組み打ちになってしまう。
力で負けるとは思わなかったが、手足の長いシグルドは器用そうだ。
投げられたわけでもないのに、足元がふわりと揺れて、ここが海上であることを思い出させた。* ]
[ シグルドの手が軸足を捉えていた。
後から気づいて、失点だな、と思う。
実戦であれば、危ういところ。
微笑のまま負けを認めたシグルドにはわかっていたか。
あえて確認はせず、彼を引き起こす。
彼のいるべき場所は、地べたではない。]
"充分に"、強くなければ意味がない。
[ また強くなった、と感想を述べたシグルドに吐露する。
そう思うのは僻みではないだろう。
だが、その話を続ける気はないと、首を巡らせた。]
汽笛が鳴ってる。出航だな。
部屋に戻る。
[ シャワーを浴びて着替えよう。*]
― 部屋 ―
[ 先ほどと同じように、シグルドの介添えを受け入れて服を脱ぐ。
一人暮らしの間は、脱いだ服を洗濯機に放り込むまでが一連の動作だったが、シグルドの手にかかったとたんに、そういう無意識の動きも変わっている。
彼がいない間、自分は何かを得ようとして逆に失っていた状態なのかもしれない。
生まれたときからあったもうひとつの器官のようなものを。 ]
[ シャワーの温度調整は彼に任せて、バスルームに置かれたシャンプー類を手にとってみたが、見事に自分が最近使っている銘柄だった。 ]
ヒアシンスの香りだ。 知ってたか──
[ 言いさして、止める。
この香りはおまえを連想させたと、そんな、益体もないことは。 ]
[ シグルドがシャワーヘッドを握って体を洗い流してくれる。
その逆はない。
健康状態のチェックも彼の仕事のうちだとわかっている。
大丈夫、傷痕などは増やしていない。
まともに一人暮らしもできるんだぞ、と言ってやりたいくらいだが、むろん黙っていた。
いちいち言わなくても用の済む相手といると、言葉は減るものじゃないか? *]
[ ベッドで待つよう促され、続き部屋の奥の方に入った。
バスローブのまま、ベッドに腰掛け、サイドテーブルの資料を手に取る。
継承の儀式に関するものではなく、この船の案内だった。
ウェルカムパーティがあるとか書いてある。
喪中であるからお祭り騒ぎは遠慮しようと思うが、会っておかねばならない人物がいるとか事情があるかもしれない。
その辺りはシグルドが把握しているはずだ。
ちょうど、彼が来たので、資料をテーブルに戻した。 ]
[ 彼の方もバスローブである。
存外にラフだな、と思った。
一人暮らしを始めた頃、風呂上がりに適当な格好をしていて風邪をひいたのを思い出す。
自分から暴露したりはしないけど。* ]
[ 言われるがまま、ベッドにバスローブを敷いて横臥する。
シグルドが口にしたお偉いさんの名は記憶に留めておいたが、この場でコメントはしなかった。
まだピースが足りない。
背に触れてきたシグルドの掌は湯上りの温かさで、汗のひいた肌に心地よい。
自分がいない間に整体でも学んだか、体から読み取ったことを饒舌に伝えてくる。
確かに、以前より的確だった。 ]
当たっている。
[ 猫が喉を鳴らすようなくぐもった声で端的に賞賛し、胸の奥から息を吐いた。 ]
[ さすがに、家を出た後、ずっと見張っていたわけではないらしい。
嬉々として情報を集めてゆく様子に、そんな推測を抱く。
この調子では、兄を悼む時間もくれまい。
眠いわけではなかったが、少し意識のレベルを落として沈思に耽る。* ]
[ むやみと話しかけて邪魔をしない、それもまた優秀な侍者の資質だ。
触れていながら空気のように存在を希薄化させたシグルドとは、呼吸の長さも鼓動の速さも一緒である。
それはきっと特別なこと。
ここまで言い訳のひとつも聞いていないが、彼が自分と離れたことはさておこう。
むしろ、この先は父との対峙が待っていようから。
その覚悟を決めるのに、ここでの時間は役立った。
終わりました、という声を受けて身体を起こす。]
[ 軽く肩を回してみた。動きがとてもいい。 ]
だいぶ違う。
[ 告げたのは事実であると同時に、彼の仕事ぶりを認めるもの。
マッサージオイルは洗い流さずともいいタイプだったから、そのままシグルドが手渡す順に服を着た。
サイズはどれもぴったりだ。オーダーメイドしたと言われても信じられる。
いくつか用意しておいて、これと判断したものを出したのかもしれないが、そこはどうでもよかった。 ]
[ シグルドが身支度を整えている間に、スマートフォンを確認しておこうと思ったが、電源が入らなかった。
充電切れか? 仕方ない。*]
[ シグルドも身支度を終えた。
彼の燕尾服姿は様になっているなどというレベルではなく、思わず見つめてしまうほどだ。
以前はあった、子供のおめかしという印象も今はまったくない。
彼を側におくだけで居住まいも変わるくらいだ。
胸の喪章にチラと視線をやって、頷いた。 ]
行くぞ。
[ 後は振り返らず、足を踏み出す。会場は大広間らしい。
どんな人間が乗り込んでいるのやら。
うっかり知り合いがいたら驚くよな。*]
― 大広間 ―
[ 一介の大学生には場違いな席であったが、気後れすることはなかった。
連れがいないため、やはりおひとりさまで来ていた老夫人の隣に案内されたが、幸い、夫人は抱きかかえた愛犬に夢中で、こちらに話し相手を求める気配はない。
シグルドのさりげない給仕を、気負いなく受けて、優雅な食事を楽しむ。量的には足りないけど!]
[ シグルドが何を言ったかここからでは聞こえないけれど、うまいことやったのだろう、お嬢さんからウインクが飛んでくる。
隣の男の出方を見つつ、こういうスリリングさは嫌いじゃないと微笑んだ。 ]
[ 自分の手元においてあるのは白ワインによく似たストレート果汁だが、テーブル越しに乾杯の所作などしてみせる。
挑発ととられてもおかしくないことは計算のうち。
むしろ、赤い首輪(?)をした男が、「
[ 武張った歩き方で若い男が挨拶にくる。
用件を告げられて、ひとつ瞬いた。
え、お嬢とパシリなのか?
いやいや、パシリにしておくにはちょっともったいないタイプだこいつ。化けるよ。
なんて評価は内心にとどめておく。]
カークライルだ。よしなに。
[ まずは、どこのどなたか知らねぇが、の部分に丁重に答える。]
では、そちらの流儀に従おう。
お邪魔するよ。
[ 返事はすぐにしたが、実際に席を立つのはシグルドが戻ってきて椅子を引いてからだ。 *]
カクさんでもいいけど。
[ 噛み砕きでもするかのように復唱されたので、提案してみる。]
ありがとう、ツェーザル。
[ 名乗り返してくれた彼に屈託無く礼を言った。
何やら首筋をこすっている様子を見守る。
やっぱりナニカ勘の良さそうな男だ。
自分らは彼らの用語の範疇ではカタギであるが、電話帳に載るようなまっとうな稼業でないのは事実。]
[ 奢り方については、肩をすくめてみせた。 ]
君たちがとても美味しそうに料理を平らげるものだから、何か秘訣のようなものがあるのかと思って、お近づきになりたかったんだよ。
[ 椅子を引きに戻ってきたシグルドに会釈をひとつ。まあ、詫びのようなものだ。
お嬢サマのところへ案内してもらって、盃をかわしたら軽くしゃべって引き上げるつもり。**]
ここの料理も良かったけれど、
[ ミーネに近づいて、そっと耳打ちした。]
あなたが手料理を作ってあげたら、彼はきっと一生、忘れないと思いますよ。
[ 外連味たっぷりに、おせっかいを。
後はシグルドを呼んで、風とともに去りぬ、だ。*]
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