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参りました。
[降参の意思を示してから、当然のように手を伸ばす。
引き起こされるまでが、いつもの流れだ。]
また強くなられましたね。
昔なら投げが決まっていたでしょうに。
[悔しさと嬉しさを3:7くらいで笑みに乗せる。*]
[主が零した言葉にはどこか鬱屈の色があった。
それを取り除きたく思えど、逸らされた視線が拒む。
あなたのことを必要ないとは、もう誰にも言わせません。
これからは誰もがあなたを認め、必要とするでしょう。
私が必ずそこへお連れします。
自負と決意を唇の内側に閉じ込めて、部屋に戻るという彼に頷き、荷物をまとめた。]
― 部屋 ―
[部屋に戻った後、主がトレーニングウェアを脱ぐのに手を貸した。
シャワーを浴びるのにも、当然のようについて行く。
彼の背を流すのも、いつも自分の仕事だった。
幼いころは、それこそ裸で泡など散らして一緒に遊んだものだ。
幸い、浴室は二人で入るのに十分な広さがある。
肌着一枚の姿で主の後に続いた。**]
[スポンジで立てた泡を肌に乗せ、柔らかな布で軽くこする。
やや熱めに合わせたシャワーで首筋から洗い流していく。
泡が残らないよう、指の間まで丁寧に。]
ヒヤシンスがお好きだとは知りませんでした。
品のいい香りですね。
[言い掛けた言葉の先が何であれ、主に自分を誇るようなことはない。
言葉が減るのはこちらも同じこと。
多くの時間を共に過ごしてきたのだ。
口にせずとも意図は伝わるものだった。]
[最後に温度を下げたシャワーで肌を引き締め、柔らかなタオルで全身の水滴を拭う。
背後に回り、バスローブを着せかけた。]
ベッドでお待ちください。
[トレーニングとシャワーの後はマッサージと決まっている。
主を送り出したあと、自分も身を清めた。
こちらもバスローブ一枚の姿で、マッサージオイルを手に寝室へ向かう。**]
[寝室に入れば、主がベッドに腰かけていた。
用意しておいた船内の案内が動いているから、読んでいたのだろうと推測がつく。
こちらを見た彼の内心までは推し量れなかったが、こちらもずいぶんと寛いでいるのは確かだった。]
お待たせしました。
退屈しませんでしたか?
[ベッドにいくつかクッションを置き、寝転がりやすいように整えてからバスローブを脱がせ、横になるよう促す。]
ディナーの案内はご覧になりましたか?
ホフマン議員もご出席なさるそうです。
[口にしたのは、今勢いのある議員の名だった。
だが、主の家とは特に繋がりのない人物であるし、こういう場で人脈を結ばなければならないような相手でもない。
唐突な感じはするだろう。]
[うつ伏せにした主の腰にタオルをかけ、掌にオイルを取って擦り合わせ温めてから主の背に摺り込んでいく。
体にくまなく触れ、ほぐしていくこの時間も、道違えたあの時以来だ。]
肩回りに筋肉がつきましたね。
腰のあたり少しバランスが崩れているようですから、修正していきましょう。
足のこのあたり、痛みは出ていませんか?
[一つ一つ確認しながら触れていく作業は、離れていた時間を埋めるようでもあった。隣にいない間彼が何をして、どんな暮らしをしていたのか、身体に直接触れて知る。]
あなたがちゃんと食事をとっていたようで安心しています。
変に痩せていたりしたらどうしようかと思っていましたよ。
[全身に及ぶ丁寧なマッサージの間、口にするのも主のここ数年間のことと、今のことばかりだった。*]
[称賛されれば素直に嬉しいし、認められるのは喜びだ。
主と仰ぐ相手の言葉ならなおさらだ。
暫くは様々なことを話していたが、反応が薄くなってきたのを察して口を閉ざした。
思索の邪魔をしないよう、黙って体と向き合う。
触れながら思うのは、この数年の、思った以上の隔絶だった。
離れる前ならば、「あなたのことは全て知っております」と言えた。
またそれは、ほぼ事実に相違なかった。
今は、知らないことがある。
ある程度の調査はしていたとはいえ、全てではない。
自分の知らない彼がいるというのは不安でもあり驚きでもあり、楽しみでもあった。]
[隔絶の原因は、或いは彼の兄についての想いの違いだろうか。
ふとそこに思い至る。
惜しい方を亡くしたとは思うが、それ以上では無かった。
自分の父についても、同じだ。
使命のために命を懸け、全うして命を落とした。
ならばそれは自分にとって、称賛こそすれ嘆くことではない。
そうだ、ともうひとつ隔絶の理由に気づく。
主について、主の家について、自分は彼よりも多くのことを知っている。
代々かの家を輔佐する血筋に生まれ、その役割を継ぐものである自分は、主自身よりも彼が為すべきことを知っている。
伝えなければ。それもまた、自分の役割だ。]
[物思ううちにも手は動き、マッサージは全身に及ぶ。
十分に全身をケアしたところで、一歩引いた。]
終わりました。
[静かに声を掛けて、手を拭う。
着替えの用意は既に整っていた。*]
[体の動きを確かめながらの主の言葉に、ありがとうございますと頭を下げる。
短い言葉ながら仕事ぶりを認めてくれる主はありがたい。
主のために用意した衣服は、要望通りの
タイもポケットチーフも黒。ジャケットもボトムも吸い込まれるような深い黒。
シャツだけはシンプルな白だ。
主の身支度を終えれば、自分の服を身に着ける。
こちらはオーソドックスな燕尾服に白手袋だった。
胸に喪章をつけたのは、主の心に寄り添う意思を形にしたもの。]
[主に見つめられても、まさか自分の身なりについて感心されているとはわからず、喪章に視線がいった後頷かれたので、納得されたのだろうとだけ思う。
離れている間、他家で研鑽を積むこともあったから、かつてあった甘えが少しは取れていると思うのだけれど。
主の言葉に、はいと答え、大広間へと移動する。
堂々と歩む主の姿こそ、気楽な次男坊の色が薄れていた。
支えていきたい。
傍にいたい。
改めてそう思う。]
失礼いたします。
[男性の側から近づいて声を掛け、軽く腰をかがめた。]
私の主からお嬢様へ、ぜひにと。
僭越ながら瞳の色に合わせてお作り致しました。
よろしければどうぞ。
[銀盆に乗っているのは淡い青のカクテルだった。
グレープフルーツジュースにライチのリキュールを少し垂らした、チャイナブルーと呼ばれる軽いもの。
拒否されなければ改めて女性の側に回り、彼女が取りやすいように盆を下げる。*]
[隣の男性の方から怒りを買ったらどうしようか、とは密やかにシミュレートしていたが、さすがに暴れられるのは想定外だった。
なので、場の雰囲気とお嬢には感謝してしかるべきだろう。]
よろしければ。
今宵、船の出会いの記念に。
[主の真意は、ちょっと声を掛けてみた、程度のものだろうと思っていたので、男性への返答は無難なものとなる。
背後で主がなにやらしているのは、ちょっと視界から外れていた。]
[急に男性の方が立ちあがる。
虚をつかれて振り返れば、主の少々挑発的な笑みが見えた。
なにをしているのですかと、多少の険が眉のあたりに出たかもしれない。]
気遣っていただきありがとうございます。
[謝罪のような言葉を愛ければ軽く頭を下げる。
険の名残が口元のあたりに淡く漂っていた]
ご自分のことですから、ご自分でどうにかなさるでしょう。
ご心配には及びません。
[自業自得、と主のことを評した口調は、どことなく意地の悪いものだったろう。
人に難題を押し付けた上に自分から問題を呼び込むような真似などなさるからです、とは心の声だ。*]
[女性の手前、突き放してみたものの、やはり心配はある。
失礼、と彼女に断りを入れて、去っていく男性の後を追った。
よもや暴力沙汰にはならないだろう。
ならないといい。彼女の口添えもあったし。
なんて思いながら成り行きを見守っていたが、男の口から出たのはなかなかにまっとうな要求だった。
彼らの求めがそれならば主も応じるだろう、と考えるのと、お邪魔するという返答が聞こえたのはほぼ同時。
無言の求めに応じて椅子を引き、立つのを助けた。*]
[ふたりの会話は荒事に発展する気配はなさそうで、まずは安堵する。
会釈してくる主には、こちらも一礼した。
あまり心配させないでくださいとの心の声は届いたかどうか。
この後は従者の分を守って、求められるまでは黙っているだろう**]
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