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[ 夢の知らせで予期していたとはいえ、兄の死は堪えた。
それなのに、シグルドときたら、こちらの気持ちを逆なでするようなことばかりだ。 ]
どうして笑っていられる?
[ 襟首を掴んで引き寄せようと手を伸ばす。
少なからず喧嘩の場数は踏んでいた。動きは鋭い。]
おまえのことだ、
すでに大学への休学届けを提出して、アルバイト先へも、借家の管理人へも連絡済みで、公共料金の手続きだって終わってるんだろう?
それだけ周到なおまえがいながら、なぜ、兄上を助けられなかった?
[ 嫌味というよりは、行き場のない苛立ちをぶつけるようにして叩きつける。
こいつにだけは来てほしくなかったという思いと、こいつ以外が来たのでは帰還を承知する気にならなかったろうという自覚の狭間で揺れる。]
[伸びてきた手を避けるそぶりは微塵も見せない。
たとえ拳が飛んできても、そのまま受けただろう。
引き寄せられ、間近で目を合わせてなお笑う。]
私は、あなたにお仕えする者です。
[あらゆる問いへの答えを一言に込める。]
アルトリート様の最期は御立派であったと聞き及んでおります。
殉じた私の父も満足だったことでしょう。
私はといえば、
あなたに再びお会いできたのが嬉しいのです。
ええ。どうも誤魔化すのが下手なようで、困ったものです。
[ポーカーでは相手をいくらでも煙に巻く男が、そう嘯いた。]
[ 手首を返して襟を締め上げても、シグルドの笑みは消えなかった。
再会できて嬉しいのだと言う。
兄が死んだからだという事情を鑑みれば不謹慎この上ないし、
こういうときはお悔やみのひとつでも言って同情してみせるのが側仕えの心得だろうに。
おれの気持ちがわからぬヤツ、とイラついたところに、
シグルドの言葉で、彼の父が兄に殉じて落命したと気付かされた。
兄が死に、シグルドが生きていたとしても、彼の"一族"が犠牲を惜しんだわけではないのだ。 ]
それは──、 大儀。
[ 厳しかったが、不在がちの父に代わって兄弟を養育してくれた人の死に動揺して、うまい言葉が見つからなかった。
指の力が抜けて、シグルドを解放する。]
[ シグルドが父の死に直面しても笑って見せているというのならば、自分も大人になるべきなのだろう。
兄の死は、立派であったというのなら、なおさら。]
行くぞ。
[ 言いながら、一番上のボタンを外した。
シグルドが
どこかで着替える手配をしていることも確信している。
車に乗り込む前のわずかな時間、学舎を見上げて、日常に別れを告げた。]
[解放されれば指を伸ばして襟を正す。
父への言葉を受けて、軽く頭を下げた。
満足だっただろうという言葉に嘘偽りはない。
むしろ、守り切れずに死に損ねた時の苦悩は計り知れなかっただろうと思う。]
はい。
[行くぞ、と掛けられた声は昔の通りだった。
微笑んで車のドアを閉め、ハンドルを握る。
黒い車は静かに走り出した。]
― 港 ―
こちらです。
[港に滑り込んだ車から降り、ドアを開けて主を誘う。
眼前には、シャングリラ号の優美かつ堂々たる船体が浮かんでいた。
手にした荷物はごく小さなトランク一つだ。
必要なものは既に船室に運び込まれているだろう。
迷うことなく桟橋に伸びた乗船口へと歩き始める。*]
[ 高級車は滑るように走り出す。
シグルドは運転席だ。運転中、どこかへ連絡する素振りもなかった。
彼の想定通りに進んでいるということだろう。
何もかもひとりでやっているわけはないと思うが、彼がジタバタしているのを見たことがない。
自分が同行を拒んで遁走したとしても、動じなかったろうなと思う。
どこまで予測して、手を打ってあるかは未知数だが。
そんな益体もないことを考えたのは、一種の現実逃避なのだろう。]
― 港 ―
[ 気がつけば車は湾岸エリアへと到着していた。
目の前に鎮座ましましているのは、ビルにも匹敵する豪華客船である。]
これは…、
[ 急いでいるなら飛行機をチャーターしてもいいところ、どうみても足の遅い豪華客船に乗せる了見がわから──わかった。]
[ はいはい、わかったよ、という感じではあったが、
自分が状況を察知したことを伝えなかったら、シグルドはどう反応するだろうかと、ふと気持ちが動いた。
困りはしないだろうが、手間をかけさせてやるのも悪くないんじゃないか?
以前は、そんなことは考えもしなかったが、家を出る際に彼に"捨てられた"という感覚は案外と根深いらしい。
今さら、何もなかったように元の鞘に収まろうというのは虫がよすぎないか。
これは報復ではないし、子供じみた試し行動でもない──はずだ。]
なんで、船なんだ。 説明しろ。
[ 腕組みし、桟橋へと向かっているシグルドの背に言葉を投げかける。]
[主が車の傍に留まったまま動かないのを察して振り返る。
視線が合えば、説明を要求された。]
ご不満ですか?
[返したのは答えではない。
疑問形だが、実のところ問いでもない。
ごく軽い揶揄だ。]
継承の儀に必要な時間を取ってあります。
儀式のこと、役目のこと、その他、覚えていただくことがいくつもあります。
準備に必要なものは全てここに揃えておきました。
[自分の胸に手を置き、一礼する。
その手を、差し伸べる形で主に向けた。]
それに、あなたと二人で旅する機会を逃したくはないと思いまして。
空白の時間を埋めるだけのものは、用意いたしましたよ。*
[ 相も変わらず深刻さを払底した微笑みで、シグルドは応じる。
呆れられている感じはしない。バカにされているわけでもない。
ただ、彼は予測のうちという余裕さを隠しもしないのだ。
それが悔しい。
彼は、義務を並べ立てつつ、こちらのひっかかっている部分をくすぐるようなことを言う。
「空白の時間を埋めるだけのものを用意した」などと言われれば、悪い気はしない。
懐柔するにあたり、どんな手を用意しているのか。
仕掛けと知りつつ乗ってやってもいい。
差し出された手に、掌を打ち付けて、車を降りた。 *]
[ぱしりと小気味良い音がして主が動き出す。
彼を先導して歩きながら、安堵の色を唇の端に乗せた。
船に乗ってしまえば、懸念の半分はクリアしたと言っていい。
洋上から逃げ出すことなどできないのだから。
但し、残りの半分こそが正念場だとも理解している。
互いにとって一つの、そして最初の試練になるだろう。
乗船手続きを終え、タラップを登る。
待ち受ける船は巨大で、揺るぎなく鎮座していた。]
― 部屋 ―
[用意された部屋に向かうのに、迷うことは無かった。
部屋の中は整えられ、衣類などは既にクローゼットに掛けられている。
テーブルなどには、見慣れた小物が置かれているのにも気づくだろう。]
夕食までは寛いでいてください。
出航は間もなくですが、甲板に見に行きますか?
[服を脱がせるよう手を伸ばしながら、今後の予定を告げる。
僅かに親密さを増した口調は、余人のいない部屋ならではだった。**]
[ 運転手のいなくなった車を振り返ることはしなかった。
自分は、ものに執着しないタチだと思う。
ごくわずかな例外を除いて。
その例外が前を歩いてゆく。
ちゃんとついてきているか、いちいち確認されるようなことはなかったが、随所随所にエスコートの所作は感じられた。
いっそ慇懃なほどに。
彼の忠誠心はどこに向いているのかと問い詰めたくもなったが、どんな答えが返ってきても安堵できない気がして止めておいた。 ]
[ 通された部屋は、必要充分な程度に快適さを保証されたスイートである。
すでにシグルドの手が入っているのは一瞥してわかった。
いろんな意味でクリーンになっているだろう。
一方で、見慣れた品がちらほらと見受けられるのには、わずかに眉をあげた。
確かに、それらが手元にあればすぐ使えて助かるし、リラックスできる気はする。
しかし、家を出るときに残したものばかりではなく、寄宿先や大学のロッカーに置いておいたはずのものまであるんだが、どういうことか。
しれっと、寛ぐよう勧める侍者に問いただすのは諦めた。 ]
[ 服を脱がせようとする手を止めることはない。
クローゼットに視線をやりながら、己の希望を告げる。 ]
これだけの船なら、トレーニングルームもあるだろう。
今日の分のトレーニングをしたい。
[ トレーニングウェアが出てくれば、手早く着替えた。
ここでも、シグルドの手を借りることを拒みはしない。
彼が着付けてくれると、なんであれ身体にフィットする気がして心地よい。
一人暮らしを始めてしばらくは、自分で袖を通した服に違和感を覚えたものだ。
喪章代わりに、黒いスウェットバンドを腕にはめる。 ]
[トレーニングをするという主のために、ウェアを用意する。
靴下に至るまで着替えを手伝った後、自分もまた運動できる衣服に変えた。
喪章のみ、揃いで身に着ける。]
では参りましょう。
[待たせることなくタオルやドリンク等を用意して、部屋の扉を開けた。]
― トレーニングルーム ―
[シャングリラ号は、トレーニング施設も充実していた。
トレーニングマシーンの並ぶジムやフィットネススタジオ、併設のプールやサウナは勿論、マット敷きの柔道場なんてものまである。
荷物を手に前を歩きトレーニング施設の前まで案内した後は一歩身を引き、どれにしますかとばかりに主を窺った。**]
[ シグルドがお揃いのスエットバンドをつけたのを見ていたが、弔意ゆえにしたことではないと感じた。
そのつもりならば、最初から喪装できているばずである。
身内の死よりも自分との再会が嬉しくて、と言った彼の心境はやはり理解しかねるものだった。
仕事が大事と思いつめすぎているのではないか。
一度、医者に診せた方がいいかもしれない、が、できる類の家業でないのがネックだ。
むしろ、こちらの正気を疑われるのがオチである。
どこか釈然としないものを抱えつつ、先導するシグルドについてトレーニングルームへ移動した。 ]
― トレーニングルーム ―
補助を頼みたい時は呼ぶ。
[ シグルドにそう伝えて、ストレッチ体操にかかる。
身体が温まったところで始めるのは、拳法の型だ。
今では師範の模範組手の相手を務めるほどの腕前である。
汗を流しているうちに、気持ちもほぐれてきて、ようやくいつものように口元に笑みが戻った。 ]
[一人でトレーニングを始めた主をしばらく眺めていたが、やがて自分もまた体を動かし始めた。
主の意識散らさないよう身を彼の視界の外に置き、要求には即応できるよう自分の視界には常に彼を入れながら、一つずつ丁寧に筋肉をほぐしていく。
単なる準備運動であったが、見る者が見れば、何らかの武術を嗜んでいると知れるだろう。
無駄のない柔らかな体は、単なるスポーツやウエイトトレーニングで作られたものではない。]
お相手いたしましょうか?
[主が一通りの型を終えたところで声を掛ける。
ふたりで行う型でも、実戦形式の組手でも、求められれば応じるつもりだった。*]
[ シグルドの方から、誘いがあった。
彼の方も準備はできているようだと見て、指でさしまねく。
以前は彼も兄も一緒に、父の手ほどきを受けていたものだ。
この先は継嗣にのみしか教えられない、と父が指導を拒否したところまでは。
ならば自力で兄と肩を並べるくらいになってやる、と自分は家を飛び出した。
離れていた間、シグルドの方は何を身につけただろう。
それを知るいい機会だと思った。 ]
プロテクターはいらないな?
[ その確認をもって手合わせの開始とした。
道場ではないこともあって、礼を省いて、いきなり足元を刈りにゆく。* ]
[主が屋敷を出てから数年。
たった数年で、彼の動きも体つきも見違えるようになったと思う。
勿論、離れている間も彼の動向を逐次把握していたけれども、直接目の当たりにすれば違いはより明白に映った。
共に学んでいたあの時と、離れていた時間を挟んだ今。
進んだ道の違いは、どれほどの差異となっているだろう。
あの時の選択が正しかったかどうか、それもすぐにわかるはずだ。]
つけたことがありましたか?
[確認に、軽口で返す。
直後、伸びてきた足に打たれて体の軸が傾いた。]
[否、これはわざと体を倒したのだ。
傾いた姿勢から相手の胸元を掴み、巻き込むように投げの体勢に持っていく。
昔から、正面からの打ち合いよりも搦め手や寝技に秀でていた。
今はさらにそれを磨いている。
投げが決まったなら、押さえこみに行くイメージは幾通りも頭の中に浮かんでいた。*]
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