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別に、世界一じゃなくて構わないから。
世界一不孝になっても、…それでいいから。
――…貴方の隣に、居させて下さい。
君、―――アプサラス、
[囁く声が気取った文句を紡ぎかけ。
なけなしの駆け引きだって下の中だ。
だから、今まで告げたことも無いほど素直になった。
ひそりと落とす小声は、月夜の続き。
或いは、朝の始まり。]
………ずっと、傍に居てくれ。
― 月の美しい夜 ―
[彼女を連れて戻った己のみが所有する邸宅。
本家には兄の家族が居るし、何よりあそこは魔に厳しい。
当然だ、教会の支援に忙しいサイキカル家、
国の内部奥深くまで潜り込んで、暗部を支える家督。
王都に戻るなり、本家に出かけた男が、
随分疲弊して帰ってきたのも幾らか前のこと。
やることは山積みであったが、
今回の作戦の事後処理を一頻り整理した頃、彼女を己の執務室に呼んだ。]
[早速掻き集められ堆く詰まれた書類は、
どれもこれも、この国の根底を密やかに支える案件。
理想や希望だけで人は変わらぬ。
一つずつ、縦に、横に置き換えて、ぴったりと嵌る場所を探さねばならぬ。
それは己の役目だ、政を謀り、国を均す。
己は救世主では無かったが、変わりに力を持っていた。
徳高く生きよ、とサイキカルの血が騒ぐ。
貴族として受け続けた教育を今更発揮するなど考えても見なかった。
当面はサイキカル一門の当主を目指し、手が届く場所から切り込む。]
[幸せな未来なんて口にするだけが簡単で、
実際は泥臭い仕事と障害が数多く待ち受ける。
だが、いつか彼女との間に生まれてくる子供を、
凶事などと呼ばせることは、決してしない。
そこで、ふと、息を漏らすと、彼女に向けて視線を起こした。
己の右腕はそこに無く、頑なに義手すら拒んだ。
今更仮初で無くしたものを埋めようとは思わない。
あったこと、してきたことを、隠してなかったことになどしない。
自分自身に恥じて生きる選択を、やはり己はしなかった。]
[かつて己は、剣は左で持つが、羽筆は右で持っていた。
今では大分歪んだ文字しか綴れない。
そんな時、彼女に代筆を頼んだ。
己の悪筆でも構わぬ書類ばかりではない、
深窓で高い教育を受けた彼女の一筆が必要だった。
今宵も彼女は、代筆の為と呼ばれた気で居るだろうか。
しかし、己は紙ではなく、掌を差し出した。
月夜に誘うのは三度目、
名を知らなかった一度目、
身分を知らなかった二度目、
三度目は何もかもを知る為に。]
[彼女の手を取り、エスコートするのは執務室に設けられた小さなバルコニー。
見下ろす庭園は己にとっては小さいながら、薔薇の蕾を抱えて今にも花開きそうだった。
彼女とは、いつも月下から始めたい。
詩文も貴族の嗜みであったが、己にはロマンス小説よりも特別な意味を持つ。
彼女も書物を愛するならば、気取った男が月夜に誘うなんて、意図が透けてしまうだろう。
けれど、彼女は深窓の令嬢。
花より優しく、硝子細工よりも丁寧に扱いたかった。
外へと誘った彼女の肩に、白いショールを掛けた。
片腕でも器用に生活送れるようになってきた。
それもこれも、彼女の補佐の御蔭だろうが。]
―――アプサラス、君も忙しいのにすまないな。
今宵は君に折り入って頼みがあるんだ。
……いつも遅いのね。と笑われてしまいそうなことなんだが。
[少々、気恥ずかしそうに咳を払った。
今更緊張が指にまで伝わり、視線を揺らす。]
[浮名なら幾らも流したのに妙な話だ。
如何にも、自分は彼女に対し、意外と奥手らしい。
それを言葉に変えたことは無いが、彼女を前にするとまだ胸が跳ねるのだ。]
……アプサラス、俺はこの国を変えようと思う。
どれだけの時間が必要かは解らない。
途方も無い時間が掛かるかもしれない。
けれど、もう、待っていて欲しいと楽観を告げない。
[それはもしかしたら何年後か、何十年後かもしれない。
人の記憶は色褪せても、深い場所に根付くのだ。
彼女にとっても、易き道ではありえない。
けれど、結んだ左手を離す心算など無かった。
彼女の選んだ男は、彼女を幸せにしたい男で在りたかった。
彼女に貰うだけ、全てを返したかった。]
万事上手く行くよう努めるが、どれだけ実現出来るかは知れない。
それでも、アプサラス―――…、
[彼女の左手を取って、指に通して押し付けるものが在った。
銀色の円環、外周は仄か蒼に光る銀で出来て、
その内側には彼女の瞳と同じ緋色の石が嵌る。
親指で通し、彼女の左の薬指に輝かせるその色合い。]
君の家族も、血族も、何もかも。
俺は強欲に君の全てを愛するから。
[思考が上手く言葉にならず、数度沈黙を噛み締めてから、
熱を散らすように瞬きを挟み。]
―――俺の、妻に、なってはくれないだろうか。
[恋うように、願うように口にした本音。
彼女の細い指先に、もう一つのリングが乗せられる。
差し出すのは五本の指が揃った左手。]
[己が左で剣を振り続けた訳、
それは案外子供っぽいもので。
剣を握る腕が落ちたときが死に時だと知っていたから、
死ぬまでそこに在って欲しいと思っていたのだ。
幼き日、絵本で読んだお姫様と王子様は、天使に祝福されて、リングを交換していた。
命繋がる、左の薬指に。
―――それは、とても、幸せな光景だった。*]
[――魔物である自分を、伴侶として迎え入れる。
兄と父を一人で兼ねた城主の前で、そう宣言した男は、早速邸宅に自分を連れ帰った。
魔を屠るべく育った男の行動は、予想以上に決然としたもので、逆にこちらが狼狽える一幕もあった。
過保護な両親の許を離れたかと思えば、過保護な男に囲われる身に落ち着いた。
同族のいない人里で、頼る者は伴侶たる男しかいない場所。
その腕の中に囚われた時のように、唯一の居場所として馴染みつつある自分が、少し不思議でもある]
[野茨公と交わした約束は、教会の改革――それと、もう一つ。
一歩を既に踏み出し、毎晩執務室に籠もる男。
邪魔をせぬよう別室で寛いでいると、今宵もお呼びが掛かった。
隻腕となった彼に、自分が手伝える唯一の仕事があった。
義手を付ければ容易い事だが、欠落を遺す事こそ彼にとって意味があるのだろうと、求められる侭に幾度も代筆を果たしてきた]
[けれど今宵は、書類の代わりに、誘うような掌が差し出された。
疑問を挟む前に自然と手を預けるのは、既に習慣に近い。
この手を彼に委ねる事に躊躇いはないが、相変わらず、手を引かれる先は読めない。最早行動を読むことも諦めつつある男が、今宵導いたのは、月明かりの下。
誘う掌も、ショールを纏わせる仕草も、ごく優しいもの。
強引だと彼のエスコートに下した評は、取り下げるべきかと思いながら、本人に告げるのは、もう少し様子を見てからにしようとも考える]
[現実主義者だと思っていた男は、存外にロマンチストで情熱家なのだと、再会を果たして早々に理解した。
花の盛りを待つ庭園へと誘う横顔にも、やはり月に映える男だと感慨を抱くだけ。
こちらを振り返った顔に、見慣れぬ色が滲むのを目にして初めて、自分の身に起きる事を薄らと肌で感じた]
――…ソマリ、
[重ねた掌から伝わる緊張が、名を呼ぶ声を掠れさせる。
そうっと指を絡め、息を潜めて男の言葉に耳を澄ませた]
[――彼が自分の全てを乞う時は、美しく飾り立てた言葉を捧げられると思っていた。眼前で紡がれる誓いは、一句一句に、飾らない真摯な響きが籠もるもの。
待ち望んだ問いの前に、するりと左の薬指を囲ったのは、二人を重ね合わせた色を宿す円環]
――…ねぇ、貴方。
断らせる気もなければ、断られるとも思ってないでしょう?
[己を乞い願う響きは、甘やかで、どこか切ないもの。
傲慢で自信過剰な男の影は潜めているのに、つい憎まれ口が真っ先に零れた]
[託された指輪をそっと握り、差し出された掌を手繰って、薬指に唇を寄せた]
―――私の、全てを。…貴方に。
[捧げます。と囁く声が、微かに震える]
――…貴方の全てを、私に。
愛させて下さい。ソマリ。
[強請る声は、何処か甘えた響きで。
ゆっくりと時間をかけて伴侶の薬指に通した指輪に、また唇を落として、微笑んだ*]
[耳に届く声に眦が熱くなる。
今後、どれだけ先までも、ジンと胸と薬指が震えるだろう。]
ありがとう、アプサラス。
[嬉しそうに笑う男は、軽く吐息を散らし、そっと瞼を伏せた。
此処から始めよう、月下から始めよう。
天女に恋をした男は、そっと、彼女の唇に接吻を落とす。
柔く食むように、唇が開き―――]
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