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[男はそれまで、約束を破ったことが無かった。
何故なら、自身の言葉にはいつも責任が付きまとい、
約束を果たすことすら義務として教えられてきたからだ。
―――ただ、一度。
稚気を晒して投げかけた約束を反故にしたことがある。
半年ほど前のマスカレイドで、名を隠し、顔を隠し、
誰とも知れぬ一人の女と一方的な約束を交わした。
なぜ、あんなに容易く約束してしまったかと今問われたら、
自身は答えを見付けかねるだろう。
それは貴族の義務の外にあった約束だったから、
個人で交わした初めての約束であったから、
自然と己の気が向かうままに言葉になったのだ。]
[仮面の下に顔を隠しただけで、知らぬ彼女と言うだけで。
打算を挟まず、未来の約束をした。
もう一度、踊ろう。と。
他愛無い約束だ。
舞踏会で仮面の紳士から告げられたなら、
ただの社交辞令と捨てられる程度のもの。
しかし、あの時、自分はどんな顔で笑ったのだったか。
女を誘う不埒な笑みでも、智謀に酔う悪辣な笑みでもなく。
仮面の下に隠した本当の自身の顔で、
ただ、その約束が果たされる時が胸が弾むほど楽しみで、
彼女が怒りながら訪れるのが嬉しくて。
彼女が姿を見せないなら、何度でも夜会を開く心算だった。
素顔を晒せぬのなら、もう一度仮面に顔を隠したって良い。
そう、思いながら笑った自身の顔を、―――思い出せずに居る。*]
[城内を静かに舞う黒蝶に意識を注げば、否が応でも思い出されるのは、半年程前の事。
思い出すと分かっていたから、それきり二度と遣いはしなかったのに。
――何より気に懸るのは、自分はあの夜、無用な火種を撒きはしなかったかという事]
[月下の庭で、顔も知らぬ男の腕に抱かれ、これ以上は寄せつけまいと並べた棘ばかりの言葉。
男が口にするのは、煽るのを愉しむとしか思えない応え。
笑みを孕んで揺れる声音に、聞き逃すまいと耳を澄ませたのは、
一つ残らず反駁してやるために。
この先他の男に誘われる時、自分を思い出すかと問われて]
……不思議な事を仰るのね?
よく顔を見てもいない方を、思い出す事があると思うの?
まして、心蕩かすようなお誘いを戴く時に、他の方を思い出す
余裕などあるかしら。
ああ…、でも貴方なら、きっと容易く出来るのでしょうね。
[男に向けた笑みは、仮面を隔てても雄弁に皮肉を語るもの]
[踵の高い靴で舞う肢体を支える筈の腕が、身動ぎも阻む程きつく絡んだ。近寄せられる顔に、口接ける心算かと咄嗟に固く唇を結ぶ。
せめてもの拒絶か――それとも、己の牙で傷つけるのを恐れたのか。
これ以上詰め寄るようなら、咬みついてやろうと決めたのも忘れて]
[唇の代わりに降ってきたのは、男に会いに再び訪れるよう唆す、挑発めいた誘い]
……自信と驕りは別物でしょうに。慎みと卑屈もね。
素性も知らない女を気安く誘うような男に、独りで会いに来る程、
慎みがないように見える?
――…貴方の気を惹くために、私が戯れを仕掛けているとでも?
[額を重ねて微笑む男の瞳を、昂ぶる深紅が真っ向から射抜き]
…だったら余程、人を見る目がないのね。
斜に構えてばかりいないで、もっとよく見たらどうなの?
[在りのままの自分を見てしまえば、二度目などある筈もない。
人を脅かすべく生まれた身を理由に、卑屈になる心算はないが。
そのくらいの事は弁えているから、見透かされずに見ていられるよう、距離を挟むのに。
――全てを眼前に曝した後でも、もう一度同じ様に笑えるのか。
激情に任せ口走った言葉が、迸る魔力に絡み、呪言と成ったのも
気づかず。鼻先を擦り寄せる男から、そのままふいと顔を逸らした。
けれど、手を離せばそれが最後と知るから、振り解く事はなく]
[やがて離れゆく掌に、輪舞の終曲を促されれば、すっと身を退いた。
裾を摘み片膝を折り、淑やかな微笑を、巧みなリードへの返礼に]
……素敵な夜を、有難う存じます。
[意図したよりも柔らかな声が唇から零れ、それきり言葉を継げずに、ただ男が告げる約束に耳を澄ませた]
[サイキカル家は元々戦場で武功を立てた一門であった。
それが何時しか魔物討伐へ特化したのは、人を殺めるよりも、
魔を打ち滅ぼす術に秀でていたからだ。
人の世に生き、魔物を屠る術を磨く高貴なる義務を持つ一族。
己が次男として生まれた時から、我が道は決まっていた。
兄は嫁を迎えて血を練り、弟の己は使徒の開発に献じられる。
それが当然であり、貴族の義務であると認識していた。]
[この城で、彼女と出逢えば、
口を開くより先に互いの立場を理解するだろう。
魔物に口上述べて敵対する声を、蝶は拾うだろうか。
魔物殺しの血を持つ男は、
重責を背負い、彼女を気安く誘って見せた面影が遠い。]
[――だから二度目を、期待はしなかった筈なのに。
まして一度は月下に潜めた姿を、戦火に照らし出されるくらいなら]
――…“自信過剰”なんて。…よく、言えたわね。
[愚かしいと知る願いを、自ら抱え込む訳がない。
今この時まで、そう信じていた。
火種を男に植えつけたのは、己への過信と驕り]
[眼となる任だけ与えた筈の蝶は、城主に名乗りを上げる、毅然と張った声さえ拾う。
すぐ傍で紡がれる男の声に、一心に耳を澄ませていた自分のように]
……、まるで別人じゃないの。
自信家なのは、向こうも相変わらずのようだけど。
[城主を前に、怯む気配は些かもなく。
また少し燠火を煽られる心地がして、微かに笑った*]
[崩落の刹那、己は確かに蝶を見た。
それが魔物の一だとは何故か思わなかった。
綺麗だ、と胸に留めたのは、純水と鮮血の飛び交う中を、
悠々と蝶が泳いでいたから。
その閃く様は、果たせなかった約束を己に突きつけているようだった。*]
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