[指先から別離したというのに、彼に纏わりつく漆黒の泥は重力を受け付けず、翼の付け根に蟠り続ける。感触は柔らかいのに、翼を駆動させても払えない。
男は種族として確立した魔族ではなく、単一個体の怪物であった。
彼を戒めるのは、我が身の欠片。背中を這う感触すら、己の五感として拾う食指。
彼の瞳に張る水膜に厚みを持たせ、咽喉を絞る悲鳴に、天の調べを拝聞するよりも恭しく耳を傾け。>>273]
無理に動かすのはお勧めだ。
――― ほう…、翼を開くとここが動くのか。
[背中に張りついた闇色は、人型の五指に代わり彼を知る。
浮き上がる肩甲骨に、細かく落ちる羽毛。
拘束の腕を幾らか緩めても、彼に課せられる不自由に変化せず。
故に、翼を叱咤し、空へ逃れる望みは一縷だけ。
彼が必死に掴めるように垂らした希望の糸。
玩ぶ悪辣に耽る男は、相変わらず虫も殺さぬ顔で笑んでいる。]